御礼と報告

 昨日はお忙しいなか、たくさんの方にお集りいただき、ありがとうございました。心より感謝申し上げます。今回のテーマは、お二人の若い研究者が、『あたらしい美学』をどう楽しんでくださったか、その報告が主でありました。(そのため、まだ読まれていない方には、少々わかりづらい話になってしまったかと思います。お詫び申し上げます。)以下、わたくしの理解した範囲で、一部を報告いたします。

 水野さんには、「あたらしい痛みをつくる」と題されたお話しをしていただきました。水野さんは、はじめに、エキソニモの作品「断末魔ウス」を紹介され、それについてのご自身のお考えを、『あたらしい美学』に登場する「情報の流れとしての世界」(→戸田山和久『知識の哲学』)に関連づけました。その後、『あたらしい美学』に欠けているのは、「断末魔ウス」に見られるような、「痛み」のような感情、痛みを伴う情報の流れ、といった視点であると指摘されました。また、マウスとカーソルという、人とコンピュータを結ぶ紐帯が断ち切られるときの痛みは、なかば忘れられているコンピュータの中の他者性の表現、強烈で身体的な表現である。がしかし、このような身体性を、『あたらしい美学』ははたして捉えきれるのか、という疑問を呈されました。

 粟田さんは、『あたらしい美学』を発展的に読む試みとして、本書のいくつかの論点を、さまざまな考えと積極的に関連づける立場でお話されました。まず、水野さんの議論を受けて、そこで論じられた「痛み」を、「システム」に対するエラーやノイズの問題として捉え直し、ご自身は、形態とシステムの動的書き換えをもたらすノイズ、その関係に注目していることを話されました。その関連で複雑系科学にも触れながら、さらにこの動的書き換えを、『あたらしい美学』に登場する「表層と深層との分離不可能性」(→田中浩也)にも関連づけられました。また、本書に登場する「無限」をめぐる話題を、「オープンリミット」の問題へと、さらに、本書に登場する「神託的計算」を、ノイズを含む計算と捉え、この「神託的計算」と「構成的計算」の同時立ち上げによって、コントロールされていないものを発生させること、それは一種の芸術表現と考えることができるのではないか、との提言をされました。さらに、水野さんも触れられた「他者性」の問題について、キー概念のひとつである「ハーネス」を引き合いに出され、この概念が、認識できない外部としての他者との共生の可能性、そのために有用な視点を提供してくれる、とのご意見をいただきました。最後に、『あたらしい美学』の立場からだと、個と集団、さらには(自然ではなく)社会といったものについて語ることができるのか、という疑問を提示されました。

(繰り返しますが、以上はお話いただいた内容のごく一部であり、わたくしの理解に基づいてまとめたものなので、誤解を含んでいる可能性があります。取り扱いにはくれぐれもご注意ください。これに続いたわたくしの答え等につきましては、また機会をあらためて書きたいと思います。)

 拙著を発展的に読んでいただいた水野さん・粟田さん、ご来場いただき、ご質問いただきました皆様、この会をセッティングしていただいた関係者のみなさまに、深く御礼申し上げます。