報告(4)最後の方の質問

最後の方の質問について。たぶん、確認の意味で、いろいろ質問していただいたのだと思います。たとえば、単にある数式が美しいと直観することと、科学との対話のなかで考えられる美との違いは何か、という質問。それから、(以下はわたしの言葉ですが)美がなんであるか積極的に規定しないことは、かえって近代的芸術作品に基づく規範を放置することになりはしないか、という質問。(これもわたしの言葉ですが)風力発電がハーネスなら、自然を搾取するあらゆる行為がハーネスの美名で語られるのではないか、という質問。

最後の2つについて、いまあらためて記しておきます。たとえば、科学画像に(美術作品であるかのような)彩色を施し、美術館に展示すること、これは、ご質問いただいたとおり、美の近代的規範を前提し、それで科学と芸術が融合したかのように考える例だと思います。でもおそらく科学者は、そのようなことはしません(これは、掲載できていない岩崎さんの論点と関係します。誤解のないように書き添えれば、わたしは岩崎さんの見解に共鳴しています)。科学における可視化像(scientific visualization)は、対応するモノの世界を前提とし、それに関する膨大なデータのなかから、そこに何が現れているかを直観的に読み取るために行われた最低限の処理の結果でしかないからです。その画像は一個の作品のような最終目的でなく過程にすぎないし、ましてやそれが芸術作品に似た何かに見えることなど、そもそも考えられていないのです。

ハーネスについては、それが複数の極のどれも絶滅させることのない間接的相互作用と関連していることを思い起こしていただければよいと思います。

フォーラムでは、鼎談者として参加していただいたお二人がアートに関わっておられるため、アートの話題がたくさん出てきましたが、それはお二人の発展的な読み、まさに「楽しみ方」であり、それでまったく問題ないわけです。

ただ、『あたらしい美学』のはじめにも書いたように、わたし自身は基本的に芸術の話はしていません。それはまだわたしがお二人のように芸術について語る枠組みをきちんと整備していないからですが、それよりも、美学の射程を振り返ったとき、まず科学から始めなければならない、と考えたからです(そして最後まで科学とともに考えるのでなければならない)。また、わたしの考える美学は、狭義の美学という分野ではもはや達成できない目標を掲げています。それは、科学との恊働なしには考えられないのです。この美学は、わたしひとりなどでは到底実現できないのです。(ひとまずフォーラムの報告はここまでとさせていただきます。長々と失礼いたしました。)