食(メシ)の記号論、『食べることの哲学』

2018年5月19日(土)20日(日)の2日間、
日本記号学会第38回大会「食(メシ)の記号論」を開催いたします。
会場は名古屋大学東山キャンパス・情報学部棟/情報学研究科棟です。
詳細は、のちほど掲載いたします。

関連して、次の本をご紹介いたします。

食べることの哲学 (教養みらい選書)

食べることの哲学 (教養みらい選書)

本の紹介

今頃で申し訳ありませんが、
三浦先生の次の本

エンドレスエイトの驚愕: ハルヒ@人間原理を考える

エンドレスエイトの驚愕: ハルヒ@人間原理を考える

これから出る次の本

展覧会いくつか

赤い 設楽知昭の絵
http://standingpine.jp/exhibitions/

アッセンブリッジ展
http://assembridge.nagoya/

アート オブ アート(大府市
http://www.city.obu.aichi.jp/contents_detail.php?frmId=34521

小川信治展「干渉法|鏡像とロンドによる」
https://www.mahokubota.com/ja/exhibitions/1284/

芦雪
http://www.chunichi.co.jp/event/rosetsu/

まだまだたくさんありますね・・・。

「Telescoreプロジェクト」を考える

0 はじめに
以下は、telescoreプロジェクトの代表者であり日本画家のiyamari氏に2016年11月20日(日)に、東京八重洲ホール102会議室で行ったインタビューをもとにした短い考察である。

1 日本文化の再考から、あるべき現在形の日本画
2 文化の異種混交性(hybridity)を前提に、その土地ならではの何かを求める
3 コラボレーションを通して両者が変わること
4 文化の未来形へ


1 日本文化の再考から、あるべき現在形の日本画
 telescoreプロジェクトの代表者であるiyamari氏は、多摩美術大学日本画出身のアーティストである。しかしながら、一見したところ、日本画とtelescoreプロジェクトには、それほど明らかな共通点がないようにも思われる。そこではじめに、なぜ日本画家であるiyamari氏が、このようなプロジェクトに至ったのかを確認しておこう。
 あらかじめ答えを述べてしまうと、このプロジェクトは、iyamari氏の、日本文化と日本画に関する深い洞察から出発しているのである。以下、それについて説明する。
インタビューの冒頭、iyamari氏は、「自分は日本画ルネサンスをしたいのだ」と言った。日本画ルネサンスとは、ルネサンス(再生)の語のとおり、日本画の原点に立ち戻り、そこで得られた知見を現在に生かす、という意味である。そこには、われわれがよく知る日本画の常識、すなわち、樹のパネルに和紙をはり、膠と岩絵具で描画する、それが日本画であるという常識への懐疑が表明されている。氏によれば、日本画がそのようなものと捉えられるようになったのは、「せいぜい戦後(第二次世界大戦後)」のことらしい。
 では、日本画の原点とは何なのか。氏によれば、それを考えるには、「日本文化のベースになっている宗教観・生活観・家屋の構造」にまで遡らなければならない。そのように考え考察を重ねた結果、氏は、日本文化の特徴が、「モノではなく、モノが置かれている空間や場、あるいはその空気感をつくるところにある」という結論に至ったという。茶道、華道などもそうだが、氏が特に例として挙げたのが、水琴窟だった。水琴窟は、いうまでもなく水滴の落下が生み出す音を聴かせるものだが、それは、水琴窟だけが存在していてもだめで、その音を部屋のなかに居ながらにして聴くことができる日本家屋の構造、そしてそれらすべてを取り巻く空間全体の構成が不可欠である。
 もうひとつ、氏が挙げる日本文化の特徴とは、そうして作られた空間は、間(ま)、隙間でもあって、何もないところにも何かを見出す、情報の読み取りの文化だということである。和歌の世界が典型であるが、氏が挙げたもうひとつの例が、移し香であった。それは、そこにいない人が存在をする時間と空間をつくりあげ、その不在を読み取らせる装置なのである。金屏風でさえ、もともとは、蝋燭の灯を映す反射板であり、それにより独特の空間をつくりあげるための間接照明用器具だった、と。
 そのような考察から氏が導き出した結論が、日本画もまた、「空間あるいは場をつくっていくもの」ではないか、ということだ。和紙をはったパネルに岩絵具で描画することが目的なのではなく、なんらかの装置を考案して、濃密な読みとりが可能な、しかし表面的には緩やかな、そうした情報空間をつくりあげること、それがあるべき日本画の現在形なのだ、ということだろう。仮にそれが、現代美術に由来するインスタレーションと呼ばれるものに似ているように見えるとしても、その出自はまったく異なるのである。telescoreプロジェクトもまた、氏のこのような考えに基づいている。

2 文化の異種混交性(hybridity)を前提に、その土地ならではの何かを求める
 telescoreプロジェクトは、切り倒された樹から樹拓をとり、その樹拓を音に変換し、その音に映像がつけられ、さらにその音に応じてダンサーが踊る。その意味では一種の総合芸術であるが、その際、樹拓の素材に選ばれる樹がその土地を代表するものであることが、重要である。今回、日本をテーマにした第一作で、氏が選んだのは「桜」であった。しかしながら、日本=桜と聞くと、それはあまりにもステレオタイプ過ぎるのではないかという疑問が生じるのではないだろうか。日本文化の絶対的本質などといったものを、氏は信じているのだろうか。
 この点についての氏の考えは、きわめて明確だった。氏は、ある文化がどのようなものか、たとえば「日本文化とは何か」という問いへの答えは、「他の文化との比較からしか出てこない」し、どのような文化も、「日本と同様、他のさまざまな地域のさまざまな文化が(宗教的交流や侵略などを通して)流入してできている」のであるから、そうした異種混交性を排した絶対的でステレオタイプ的な「らしさ」というのはありえないと言う。むしろ「それでは意味がない」とまで言うのである(こうした氏の考えには、幼少期のワールドミュージック体験が影響しているという)。しかし、だからこそ氏は、「その土地ならではのものを求める」というのだ。
 異種混交性を前提としたうえで、その土地ならではのものを求める姿勢。一見相反することのように思われるが、これから計画されている氏のイギリス連邦滞在中の制作の構想を聞くと、そうではないことがわかる。以下、それについて述べる。

3 コラボレーションを通して両者が変わること
 イギリス滞在中に行うことは何か、という問いに、氏は少なくとも二つのことを平行して行う、と答えた。ひとつは音楽に関すること、もうひとつは樹とダンサーに関することである。
イギリスでも、日本と同様、樹から樹拓をとり、その樹拓をもとに音楽を制作する予定だが、そこでおそらくは第一の変化があるだろう、と言う。それは、樹拓から音楽を制作する際、プログラム的にはいったんドレミファソラシドの音階に変換するのだが、それを最終的にどのような音階に落としこむかは、それとは別に決定しなければならないということである。日本でも雅楽の音階に落とし込むための工夫を施したが、イギリスでは、4音階(いわゆる5音音階?)に落とし込む必要があるかもしれない、と。ただ、実際にそれがいわゆる4音階になるかどうかはわからない。現地で調査を行い、過去さまざまな文化が流れ着いては混交していったであろうその様子を思い描き、そのなかで、ほんとうに現在その土地に根差している音階を発見的に探し当てなければならない、という。その音階を決定するには、土地の歴史や風土ももちろん勉強しなければならない。そのようにして、自分がその土地に対してもっている先入観を振り落とし、新しく、その土地をほんとうに代表している音階は何かを構築していくのだ、と。その土地の異種混交性を認識し、そのうえで、何かほんとうに重要な音階かを見極める作業を行うことを通して、その土地の文化的背景を理解する。と同時に、その作業を通して、自分自身のその土地に対する認識もまた変わる(よって自分も変わる)、そのことが重要である、と言う。その土地でほんとうに大事な樹は何であるかを探すことについても、音階と同じ作業が不可欠であるだろう。
逆の方向もある。現地で見つけたダンサーあるいはアクターに、その土地の樹を表現してもらうよう頼まなければならない。しかし、それが簡単なことではないのだ、と言う。日本の「舞踏家は人間でないものを表現するのに長けているが、世界にはそうでなはないパフォーマー、アクターの方が多い」、つまり「アクターは人間しかアクトしない(あくまで人間が何かを演じる、という視点である)」。それゆえ、そういうアクターに、「樹になってください」という依頼をしたとしても、彼らには何を頼まれているかがわからないかもしれないし、理解されたとしてもどんなものが出てくるかは、まったくの未知数なのである。そしてこの点で、自分自身だけでなく、彼らにとっても実験的な要素が出てくる。彼らもまた変わらざるを得ないのである。
そのようにして、「普段の彼らのやり方ではないもの、普段のわたしのやり方ではないもの」の両方が出てきて初めて、このプロジェクトの意味がある。両者が変わることこそ、コラボレーションの意味なのだ。しかしながら、だからこそ、その土地を愛し、その樹を知っている人でなければならない。そうでなければ、そもそもその樹になるよう依頼することさえできないだろう。
コラボレーションを通した異種混交の過程だからこそ、その土地ならではの人やものを求めるという一見相反する考えの内実は、このようなものであり、それはきわめてまっとうなものなのである。

4 文化の未来形へ
 氏によれば、今後イギリスだけでなく、各国に滞在し、同様の試みを行うという。またそれらの試みの結果を、相互に比較可能なかたちで展示することを構想しているという。それはどのようなものになるだろうか? 
すでに述べたように、氏は、原点に戻って現在あるべき姿を模索し、その傍ら、同様のアプローチを用いて他の文化を生きる人々と交わりながら、そのコラボレーションの両側で変容を生じさせることを目指している。原点をふまえた新しい文化の構築、いわば文化の未来形を構想するiyamari氏のtelescoreプロジェクトが引き続き進展していくことを、楽しみに待ちたいと思う。

Telescore Project

すでに終了してしまいましたが、2016年10月6日から12日まで、渋谷ヒカリエにて、
Telescore project(テレスコア・プロジェクト)という興味深い試みが行われていました。
その際に行われたトークイベントを基に、以下のテキストは作成されました。

トークイベントの記録
2016年10月10日(月)渋谷ヒカリエにて
ファシリテーター: 猪狩 千恵子氏
ゲスト:iyamari(アーティスト)、石井則仁氏(山海塾、DEVIATE.CO)
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Telescope project http://www.iyamari.info
「樹からのアプローチ」
「JPN-Sakura」編

アーティストのiyamari.を中心にした、「環境と時間」をテーマにしたプロジェクト。

このプロジェクトは、「樹からのアプローチ」と言われるように、
iyamariが制作する「樹拓(じゅたく)」から、すべてが始まっている。

樹拓とは、他の拓本と同様、樹木の切り株から年輪を転写したものである(*)。
この転写された年輪の明暗をもとに楽譜(score)がつくられ、さらにその楽譜を基にして、
音楽が作られる。その際、音の抜き差しなど、一切の恣意的操作は行われない。


(上:樹拓から作成された楽譜Score)

だからその音楽は、樹木の声である。
その声は、長い年月を経て、はるか遠い過去(tele)から現在に語りかけてくる。

この声に、樹拓のもとになった樹と同じ環境を共有する人(パフォーマー)が応じるとき、
telescore projectの全体が立ち上がる。

樹(SAKURA)と共応するのは、「舞踏」の舞い手である石井則仁氏(山海塾、Deviate. Co)である。
(石井氏については、http://deviate-co.com/index.html

周知のように舞踏とは、1960年代以来、農耕民である日本人にふさわしい身体性を意識し、
病や死さえ射程に入れながら、独自の発展を遂げてきた。そこでは、人は世界の中心として四囲を組織化するのではなく、
ただの皮の袋であり、そのなかに花や鳥やヒト自身を受け容れることで初めて何かを表現することができると考えられている。

樹と舞踏。環境を共有する両者の見事な競演が繰り広げられた。

今後このプロジェクトは、イギリス連邦に渡る。
スコットランドウェールズを含む彼の地で、どのような樹と出会い、また、
どのようなパフォーマーと出会うのだろうか。楽しみである。

(上:会場風景の一部)

(*本プロジェクトに限らず、アーティスト iyamariさんの樹拓作品に使用している木は、
全て既に切り倒された 木材の端材、もしくは立木を使用しています。
また、樹拓用の墨汁は膠系に限り、立木への影響を抑えています。)

展覧会データ:
【Telescore project】展
会期:2016年10月6日(木)-12日(月)
会場:渋谷ヒカリエ8F Creative Lounge MOV aiiima3
運営スタッフ:
主宰/ iyamari
テクニカルエンジニア/ Sheep
撮影/ Karin

参考URL
http://www.iyamari.info
http://deviate-co.com/pg108.html
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