報告(続)

水野さんの質問に対するわたしの答えは、「痛みのような身体性を生きることはできるけれどもそれをそのまま(ナマな仕方で)学問的に取り扱うことは無理である」というものだったように記憶しています(自分のことになるとよく覚えていない)。けれども、「痛み」の問題は、伝統的な哲学でも重要で、とりわけ、身体論者が言語中心主義者(どっちもほんとにそんな人がいるのかよくわからないレッテルですが)を批判するときに登場します(cf.Shusterman,R.(2000), Pragmatist Aesthetics,Ch.9)。

粟田さんの質問に対しても、たしか、「粟田さんが想定されている集団と、ハーネスの対象になる集団とはおそらく異なっている(というのは、社会的な集団について限定した議論をしているわけではないから)」という答えだったと思います。盛り上がらない答えですね。。。でも仕方ないです。

前にも書きましたが、お二方とも、『あたらしい美学』を発展的に読み、わたしの考えの及んでいない領域や問題にまでそれを結び付けてくださったわけですから、それでよいわけで、オーディエンスのなかにも、お二人の指摘された点が気になっていた、という方がいらっしゃたのでは、と思います(もちろん、前にも書きましたように、まだ読まれていない方にはわかりにくい話になってしまいました)。重ねて御礼申し上げます。

フロアからの質問についても、ごく簡単にご報告いたします。ひとつは、いまわたしたちは目的論的自然観に立つことはできないのではないか、もうひとつは、ライプニッツモナド論は二つの視点、つまり神の視点とモナドの視点の二つから書かれているが、『あたらしい美学』で両者はどう考えらえているのか、というものでした。どちらも、目的論の自然化にかかわる重要な質問でした。後者は観測者の問題でもあります。


最後にもうひとつフロアから質問をいただきました。これも大事なのですが、また次の機会に書きます。